Yumemiru Danshi wa Genjitsushugisha RAW - chapter (191)
後悔の先へ
左手の処置が終わった。今は洗浄されたのち軟膏を塗りたくられ、透明なラップのようなものを介した上に包帯を巻いている。
診断結果として俺の左手は貫通しておらず、手の甲側の組織により途中でガードされていたという。また精密検査の結果、凶器がナイフなどではなく裁ちバサミだった事が幸いし、神経まで傷付いてはいなかったようだ。経過次第だが、後遺症はおそらく残らないらしい。
病院の先生には床に手を突いた先に上を向いた裁ちバサミがあったと説明した。学校側から尋ねられても同じ説明をしようと考えている。
「あ、あの……」
「……」
病院の集団処置室のような部屋で簡易ベッドに横になり、痛み止めの点滴を打っている俺の横で、丸椅子に座っているお嬢が気遣わしげな声を発する。その目元は送ってくれた車の中で付き添ってくれたときより湿っているように見えた。
言葉は続かない。そもそも今に至るまで会話という会話は特に無かった。
別に無視してるわけじゃない。どう接すれば良いのか俺の方も迷っている。左手に怪我を負った経緯や原因を考えれば、この場でお嬢を
詰
る事も間違いじゃないんだろう。ただやっぱり理屈と感情は別物だった。感情がお嬢に強い言葉を浴びせようとはしていない。目立たないかたちで病院まで運んでくれた、という感謝の気持ちもある。
少し考えて、いったん後回しにすることにした。
「……どうも、助かりました。目立たずに済んだだけじゃなく、治療費まで……」
「いえ、お気になさらず」
お嬢の後ろに立つ老齢の執事然とした爺さんに礼を言うと、丁寧な口調で返された。これが俗に言う〝爺や〟という存在だろうか。現実に、それも今の時代に居るんだなこういう人。よくある物語の執事じゃなくてガードマン的な恰好なのがちょっと残念。車もタクシーっぽいものでベンツのような高級車じゃなかった。実はちょっと期待してた……。
「……佐城様」
「あ、はい」
佐城様……そんな呼ばれ方された事ないから感動してしまう。恐縮しつつ返事すると、爺やさんは俺を神妙な表情で見下ろした。
「先ほどの診察医へのご説明では、お気遣いいただいたようで……」
「あ、えっと……」
「……っ……」
治療に付き添いは無く、俺と病院の先生のみが居る場で行われた。そこで怪我に至るまでの経緯も説明したけど、どうやら後でこの爺やさんにも伝わったのだろう。ただ、
お気遣い
という言い回しに引っ掛かりを覚えた。お嬢を見ると、視線を躱すように俯かれた。
話したのか。
なぜ自ら。そう思ったものの、少し考えてそりゃそうかと納得した。本当に床に手を突いた拍子の怪我なら他所の家が治療費を払ってくれるなんて違和感しかない。この手厚いフォローもそのためか。
「重ねて厚かましいお願いにはなりますが、どうか、此度の事はご内密に……」
自分より何倍もの年齢の人に頭を下げられ、しかも仰々しい言葉で懇願されて困ってしまう。高一の坊主が経験する事じゃないって絶対。SNSとかで「何か手にぶっ刺さったんですけどw」なんて画像付きで投稿するとでも思われてるのだろうか。さすがに無いか。
「別に、良いですけど……」
お願いなんてされなくともこの事は可能な限り墓まで持って行く。お嬢にとってどうかは知らないけど俺にとっては黒歴史だ。自分でやってるからなこれ……。数時間後にこの心情なんだ、大人になった頃に笑って話せる内容とも思えない。
ただ黙ったところで、このあからさまに「怪我してます!」と主張する左手をどう扱っていくか、それだけが憂鬱だった。
◆
病院に着いておよそ一時間。そろそろ学校でも生徒が部活を終えて帰る頃だろう。病院内も俺が来た段階から受付が閉まっていたし、出歩く人はほとんど居なかった。文化祭実行委員会を手伝っていた時から何かと直帰が減っている気がする。とても帰宅部とは思えない。
「薬……しまいますわ」
「あ、はい……」
いかにも意気消沈しているお嬢が右手を伸ばしてくる。
処方された薬の入った袋を手渡す。お嬢は両手に抱える俺の鞄のファスナーを開けると、丁寧に側面側に差し込むように仕舞った。弱々しいせいか、妙に奥ゆかしさが増したお嬢に荷物を持ってもらっている状況に違和感しかない。
頭の中で言葉を選んでいると、前を歩く爺やさんが後ろに振り向いた。
「佐城様。ご自宅まで送ります」
「お───」
「必要無い」
「え?」
お言葉に甘えてお願いしようとすると、そんな俺の声を遮るように高圧的な声が爺やさんの申し出を切り捨てた。あんまりな拒絶に驚いて声がした方に振り向くと、腕を組んで仁王立ちする姉貴が居た。
状況が呑み込めずに居ると、姉貴の奥に他にも人が居ることに気付く。
結城
先輩と、保健室に居たギャルっぽい先輩だ。確か……
鬼束
先輩だったか。ニコニコ笑顔で俺に手をフリフリして来た。なに笑とんねん。
「
玉緒
、ちょっと鞄持ってて」
「おけまるー」
あっ、あの目はヤバい。
本能的にそう思ったのも束の間、姉貴は爺やさんの肩を掴んで
退
かしこっちに歩み寄る。姉貴の右肘が宙に浮かんだのが見えた瞬間、反射的に左手をお嬢の顔の前に翳した。
「……」
「やめろ」
早めのガードが功を奏したか、姉貴の拳は振りかざされたところで止まった。あれが振り抜かれれば放った本人ですら途中で止めることはできなかっただろう。俺もまた病院の世話になるところだった。
後ろに居る爺やさんは姉貴を止めようとしたのだろう、両手を伸ばそうとした状態で冷や冷やした顔をしている。ご高齢の人に寿命が縮む思いをさせるとか洒落になってねぇよ。
「……!」
包帯に巻かれた俺の左手を見て、とても生徒会の副会長とは思えないほど表情を歪めて俯く姉貴、気に入らなさそうに拳を下ろすと、ギラついた目付きで後ろの爺やさんを睨み付けた。
「クソガキが無駄に力を持ったところでろくな事にならないって……忠告してたはずだけど。長年生きたジジイでもどうにかできなかったわけ」
「その……年寄りとしては、お嬢様がご自分で乗り越えることを期待していて……」
「その結果が、これ」
「うむぅ……」
姉貴の責めるような言葉に、
呻
きつつ口を噤む爺やさん。どうやら前から顔見知りだったみたいだ。さすがに初対面で自分より何倍も生きる人にいきなりそんな態度は取らないだろう。しかし姉貴が狂犬すぎる。このままただ見ているわけにはいかない。
「よく、ここが分かったな」
状況が事案と化さないよう、話を変えるように言葉を投げかけると、それに乗っかるように結城先輩が一歩歩み出た。
「お前を送り出して一時間。しかし、お前は帰って来ず、生徒会に面会したいという者も現れず。不思議に思って生徒会室に向かえば明らかに何かがあったように散乱した室内と血の跡だ。調べた結果、電話をかけてきたのは
茉莉花
に唆されただけの学校の事務員である事が判明。行方を探ろうとしたところで楓の下に血相を変えた鬼束がやって来た。お前がこの病院に運ばれたとな」
「楓、すっごい取り乱してたよ〜」
「あ、あー……」
生徒会室、そのままだった……。おそらく事件現場にしか見えなかったに違いない。その時の生徒会一同の顔が目に浮かぶ。
「あそこで何があったかは道中、監視カメラを確認した
甲斐
から聞いた。改めて説明は要らない」
「あ……」
「こいつはアタシらが連れて帰るから」
「し、しかし……ご両親に説明を」
「いらない。何もしなくていい。その代わり二度と近付くな」
「……」
止めようと覚束なく手を伸ばすものの、言葉は出て来ず。これが姉貴のただの八つ当たりならまだしも、俺が知らない背景があるらしい状況で迂闊に口を出すことができない。これが再三注意した結果なら、確かに怒りをぶつけられて然るべきと思えるからだ。
「茉莉花」
戸惑っていると、結城先輩がお嬢を呼んだ。
「前から言っていたはずだ、俺は家が決めたことに縛られるつもりはないと。直接的な言葉は避けてきたが、それにはお前との関係も含まれている」
「ぁ……」
「家を継ぐ者として自分の立場は理解しているつもりだ。だからこそ
東雲
家には血縁を結ばずとも悪いようにはしないと伝えてある。そんな前時代的なものでしか繋げない関係などあるべきではないからな」
「わ、わたくしはただっ……!」
「今はこれ以上は言わない。だが後日、改めて俺の考えを伝えさせてもらう」
「……っ……」
親が勝手に交わした結婚の約束。お嬢にとってそれは果たすべき責任だったが、結城先輩にとってそれは自分を縛り付ける枷でしかなかった。どっちが常識的かで言えば結城先輩の方だ。普通なら自分の将来の相手を親に勝手に決められるなんて我慢ならない話だ。でもあんなイケメンだったらなぁ……憧れもするだろうよ。
「……それだけだ」
そう言ってスタスタと去って行く結城先輩。あれで僅かでも優しくしたつもりだろうか。全く優しくない。でもこれで正解なのかもしれない。希望を残すようにフラれて何度もアプローチをしてしまう悲しき怪物を俺は一人知っている。何故だろう、お嬢より先に俺が泣きそうだ。
「行くよ」
「あ、ああ……」
顎で先を示す姉貴。結城先輩の言葉で溜飲が下がったのか、さっきより落ち着きを取り戻したようだ。どうにもこの構図でしゃしゃり出るのは難しそうだし、大人しく姉貴に付いて行くしかないか。
「……あっ」
俺の鞄、お嬢が抱えたままじゃん。神様……イタズラが過ぎやしませんか。俺が何か悪いことしましたかね。
「その……お嬢」
「な、泣いてませんわっ……!」
「えっ」
「泣いていませんっ……」
中身の少ない俺の鞄をギュッと抱き締め俯いているお嬢の顔は長い金髪で隠れていてよく見えない。とはいえ、震える声を聞いてお嬢がどんな状態にあるかは簡単に察せられた。必死に虚勢を張って紡がれた言葉は、俺にとって降って舞い降りた果たすべき責任だった。
「……涙、似合わないっすね」
死を望んだかもしれないお嬢が、すぐ目の前でどうしようもなく今を生きている。これが再び立ち上がるための節目なのだとすれば、俺のさっきの安い言葉でその道を閉ざすわけにはいかなかった。
鞄はいとも容易くお嬢の手から離れた。
悲しみを受け容れず、自分の気持ちに抗おうとする今のお嬢はきっと不細工な顔をしているのだろう。諦めで冷めきった涙とは違い、激情の篭った涙は熱くて仕方ないに違いない。それを無意味なものだと思いたくはなかった。叶わない理想の先には失恋と同じような後悔があり、後悔は人を磨くはずだから。
次に会うお嬢はきっと、今より綺麗なはずだ。