Yumemiru Danshi wa Genjitsushugisha RAW - chapter (77)
転がる心
目の前に突然好きな人が現れたらどう反応すれば良いのだろう。嬉しいけど頭が真っ白になってしまう。気の利いた言葉なんて思い付くわけがないし、一秒にも満たない時間で何とか捻り出したのはカッコよさの欠片も感じない年寄り臭いものだった。
「くふっ……何よそれ」
やだ可愛いじゃないの。
いや待て。中々俺に対して直接笑いかけてくれない夏川が笑った……? 天変地異の前触れですか。何かと俺に対してはカリカリとしてる手厳しい女神なイメージだったけど、ついにその微笑みが俺に向けられた……? おいおい、もしかしてお迎えじゃねぇだろうな……働き過ぎたんじゃねぇの俺。
「いやほら、今日たくさん運んだからさ」
……待てよ? もしかしてこれは最高の最期なんじゃねぇか? 頑張った後に
夏川
に看取られるんだぜ? こんな幸せなことあるか? おかしいなパトラッシュ……死ぬ間際なのに力が
漲
って来るんだ。今なら
閻魔
大王にも勝てそう。待って、何で地獄に落ちてんの俺。
「うん……見てたから知ってる」
「あ、そうなんだ……え?」
いよいよかな?
機を窺ってたわけじゃねぇよな……え、冗談抜きで何でこんなに信じられないの俺。一度もこんな顔を向けられたことが無いからか。喜ぶ顔、楽しんでる顔、嬉しそうにする顔、そのどれもをよく知ってるけど、記憶の中にあるそれはほとんどが俺に向けられたものじゃなかった。こんなことは初めてだ。
話すには距離が開きすぎているのか、夏川は一歩、二歩と距離を詰めて来る。いやあの、ですね……嬉しいけど嬉しくないというか……心の準備ができてないと醜態をさらすだけと言いますか。あんまり近くに来られると神々しさのあまり俺の目が溶けて──え?
「いっぱい働いたんだ……汗のにおいがする」
「───!?」
俺の胸元にほんの少し
縋
るように顔を近付ける夏川。無意識なのか、ぺた、ぺたと俺の胸元に何度か手を添えると、一歩離れてにっこりと微笑んだ。いやちょっと待って、ゼロ距離から一歩離れても全然至近距離なんだけど。エグいエグいエグいエグい。今夜眠れなくなっちゃうんだけど。やばいって。本気の本気で、どうすりゃ良いかわかんない。
「な、夏川」
「? なに?」
え、何でそんな普通の感じなの? 俺に対するトゲはいずこへ? 自覚無しなの? この夏休み前半で何があったの?
目の前で小首を傾げる夏川にいつもの俺に怒ってる様子はなく……よく見ると髪は妙に乱れた様子で、ちょっと汗ばんで肌に張り付くとこが
艶
めかしく見えた。跳ねて浮いてしまっている髪が日差しを受けてキラキラと輝いている。少し息遣いも荒く、俺を見上げる夏川の息が直接顔に当たって何かもうどうにかなってしまいそうだった。
たじろぐ。
慄
く。立ち竦む。
後ろはベンチ、逃げ場は無い。久々に見た夏川は刺激が強すぎる。単に久々なだけ……? もしかして前からこんな事あった? だとしたら俺が地獄に落ちるのも納得が行く。ごめんな、全国の
仲間達
。見たか、羨ましいだろ。死にそう。
「ちょ、近い」
「え? あ……ご、ごめん」
やっと俺との異常な距離感に気付いたのか、夏川はもう一歩離れると特に気にする様子も無くにっこりと微笑んだ。俺の心臓が馬鹿になってるのがわかる。幸せなあまり寿命が延びるものの、血圧が高くなりすぎて寿命が縮んだのがわかった。よくわからないけど、今の夏川は全身がウキウキしてるように見えた。
「えっと……何か、嬉しい事でもあったのか?」
「え?」
「や、何かその、雰囲気が柔らかいというか……何ていうかこう、気持ち良い感じの顔してるから」
「え!?」
言い方がマズかったわ。言われて動揺したのか、夏川は自分の顔をペタペタと触り始めた。可愛いかよ……天然さんですか? 結婚したい。
あ、ヤバいヤバい。危ない、夏川が魅力的過ぎて思わずプロポーズするところだった。給料三か月分まだもらってないから指輪買えねぇや。いやそんな問題じゃなくね? 馬鹿なの俺。バイトで稼いだ金じゃ三か月じゃ足りないって。二年分は必要だから。何なら夏川のためなら銀行で金借りてもっと出すから───いやだからそーゆー問題じゃねぇんだよぉッ……! いい加減にしろよ俺ッ……!
な、夏川さん? 機嫌が良い理由が分かりました? 俺と関係なく今日は機嫌が良いってだけだよね? 教えて、夏川が女神な理由(哲学)
「わ、渉がいつも通りで安心しちゃっただけだからっ」
君は俺をどうしたいんだい?
え、俺がいつも通りだと安心するタイプ? 奇遇じゃん、俺も夏川がいつも通りだと安心するタイプ。だから全然安心できない。気でも触れたか、それとも単に夏川が女神なだけか。圧倒的女神ですね、現場からは以上です。
「そ、そうかい……それで、どうしたんだ? 何か急いで出て来たみたいだけど」
「えっ……そ、それはそのっ、えっと……」
「……?」
訊き返すとしどろもどろになりだす夏川。手を
忙
しなく動かして、顔色を窺うようにたびたび見上げて来る。答えを
急
かすのは野暮、女神様のお言葉を一語一句聞き逃さない俺がそんなことをするわけが無い。そう、これは託宣。矮小なわたくしめが女神様のいかなるご要望にも応えてしんぜよう。
「───ると………から」
「え?」
「わ、渉とまだ話せてなかったからっ!」
俺、息してる? ※してる
え、何その可愛らしい理由……もしかして急いで外に出て来たのって俺を捜してたから……? そんな事ってあんの?
佐々木
と話してた方が良かったりするんじゃないの……? そこまでして俺と話したがるって何? もしかしてなりふり構ってらんない理由でも有ったりすんの……?
「えっと………そりゃまた何で」
「な、何でって……逆に何で話さないのよっ」
え、何で……? 話さないと礼儀的な何かを欠いちゃう感じ? 俺的には気を遣って話しかけなかったつもりなんだけどな……佐々木にしてもそうだし、夏川の今後的な意味でもその方が良い気がしたんだけど。や、まあ俺の感情は置いといてさ。
「せ、せっかく久し振りに会ったのに……さみしいじゃない……」
「可愛いかよ」
「も、もうっ……! そういうとこ!」
思わず心の声が出てしまった。仕方ないじゃん、夏川が可愛すぎてもう色んなもんが溢れてんだよ。だから夏川。そんなまるで俺のせいみたいな顔して頬を膨らませるんじゃ───え、〝頬を膨らませ〟? ちょっと待てよ何だよその可愛い顔ッ……! ホントいい加減にしろよ! マジで婚約指輪買ってきてプロポーズすっぞ!? ええんか!? 銀行からお金借りてウン十万のやつ持ってきちゃうぞ……!!
……お、落ち着け俺。夏川が可愛いのは今に始まったことじゃない。今日
も
可愛いんだ。ゲームで考えろ。可愛さ99のやつがもっと可愛くなっても99は上限値だからこれ以上増えねぇだろ。それと同じ。結論、夏川はいつも可愛い。はい冷静。
「いや悪かったよ夏川。中々暇が無くてさ」
「し、知ってる」
「……っ………」
や、ホントもう限界なんですけど?
心とかそういう問題じゃない。夏川の可愛さに俺の全身が軋んで悲鳴を上げてる。明日は筋肉痛かな? 夏川の可愛さでマッチョになっちゃうよ……。
お腹いっぱいな気持ちで眩暈を覚えていると、俺の中で何かが一周回ったのか逆に冷静になれた。
「───そうだな。久し振り、夏川」
「う、うん……久し振り」
ちょっと落ち着いて言うと、夏川はちょっとくすぐったそうに笑った。そうやって嬉しそうにされる事にまだ現実味が湧かない。俺と話せて……嬉しいん、だよな……? わからない。これが女心なのか夏川だからなのか。言える事があるとすれば今俺はすっげぇ幸せだという事だ。おっかしいな……前はこの笑顔を向けてもらうためにめっちゃ努力してたのに。何でそれが〝今〟なんだろう。理想の関係性とは言えないんだけどな。
だからこそかもしれない。夏川が〝そういう感情〟をとことん抜きにして俺と関わって行くつもりなら、俺ももしかしたら夏川に対する熱を帯びた想いなんて忘れていつかは友人として──え?
「……」
「……」
ふいにまた近寄ってきた夏川。すぐ目の前まで来ると、そっと腕を伸ばして俺の袖を
摘
まんだ。
至近距離から見上げられる眼差しはどこか不安そうで……そして、何かを期待するような真っ直ぐさがあった。手を伸ばせば簡単にその髪に触れられそうで、少し顔を近付ければ簡単にキスできてしまいそうだった。
……無理じゃね?
「その……夏川」
頭の中に鳴り響いていた非常事態発生コールが鳴りを強めた。そんな壊れかけの俺をかろうじて繋ぎ止めたのは、前に芦田がファミレスの帰りにくれた助言だった。
〝どんな相手だろうと、自分を好いてくれる誰かが居るのは嬉しい〟。
そうだ、これはなにも俺に限った話じゃないんだ。夏川にとっちゃ、自分を好いてくれるなら誰でもいい。今ここにいる知り合いが俺じゃなかったとしても、同じことが起こってたかもしれない。そう考えると、何だか勇気が湧いてきた。
嫌がられるかもしれない。振り払われるかもしれない。そんな恐れを抱きながらも、袖を摘ままれた方の手で夏川の肩にそっと手を置いてみる。
抵抗はなかった。
この距離はマズいと、そっと夏川の手を引かせようとする。それでも夏川は俺の袖を摘まんだままで、俺の勝手な解釈だと絶対離すまいと言っているようだった。男の醜さか、まるで今この瞬間だけは夏川が俺のものになったように思えた。平静を装って、生えかけた邪念を抑えつけるようにして言葉を絞り出す。
「夏川……どっかで話すか」
「! そ、そうね!」
パァッ、と表情を変えて離れる夏川。眩しい笑顔を見れた嬉しさと強烈な名残惜しさが襲って来た。頭では〝ダメだ〟と分かっていても、やっぱり俺の中には夏川を求める欲求が根強く残っている。どっちが強いとかそういう話じゃない、頭の中で互いに混ざり合ってごちゃごちゃに絡まっている。
「あっれー? 愛ちにさじょっちじゃん!」
「お……」
「あ……!」
駄目になりそうになって来た瞬間、割って入って来た声。俺や夏川をそんな呼び方する人間は一人しかいない。二人して立ち止まって声の方を見る。数週間ぶりに
見
えたその顔を見て、正直助かったと思った。
その人物──芦田は、部活終わりなのかでかいスポーツバッグを背負って制服姿で歩いて来た。
「け、圭っ……!」
「わわっ、どったの愛ち!? ちょ、今けっこー汗臭いから!」
夏川は芦田に駆け寄ると跳び付くように抱き着く。急な抱擁を受けて芦田は目を
瞬
かせている。芦田は汗をかいた後らしく気にしてるようだ。でも、どうやら夏川にはお構いなしらしい。
二人をよそに、先ほど夏川が摘まんだ袖に触る。意識するまでもなく、まだ俺の目の前には甘い香りが漂っていた。
脳みそが溶かされ、魂が抜けるように、ベンチに腰を落とすしかなかった。