Yumemiru Danshi wa Genjitsushugisha RAW - chapter (189)
緊急事態
最初に感じたのは金属の氷のように冷たい感触だった。
「───ぇ………」
前方から発せられた至高の1音。ほとんど息でしかなかったものの、求めて止まなかったその一驚は俺を次のアクションへと繋げる原動力となった。
火傷をするような熱さが走る。
質量のある二度目の衝突音が口から飛び出した
呻
き声を掻き消す。複数回鳴り響いたゴトンゴトンという音は相変わらず不快でしかなかった。記憶に残ろうとしていた達成感までもいとも容易く消し飛ばしてくれた。
持ち込まれた裁ちバサミが皮肉な形でお嬢に返される。その先端は
予
てから想定されていたであろう色合いに変わっていた。
「……ッハ………ッ………!」
一瞬、細かな泡が吹き出す音が聞こえた。多少の水滴など無音で吸い込んでしまいそうな渇いた床にポタポタと水音が生じる。床としての健全さをこれ以上損なってしまわないよう、重力のままにぶら下がる左腕の手首を空いた右手で強く握って固定する。
息を止め堪えて数秒、瞬間の激痛が継続の鈍痛に変わったところでようやく言葉を発する余裕が生まれた。口の中に溜まった唾を飲み込む。
「……ッ……思ったより、痛ぇな……!」
味わったことの無い
内側
からの強烈な刺激。本気になれば簡単に堪えられるものだと侮っていたことは否めない。ただ、意地でも数秒前の自分の行動を無駄にするわけにはいかなかった。
「…………なぁ、お嬢?」
「ひッ……!?」
こうは、なりたくないよな……?
そう目で訴えかけると、お嬢の両手からカッターナイフが零れ落ちた。床に落ちた衝撃で限界まで飛び出していた刃が折れ生徒会室の隅へと飛んで行く。血の気が引いたのか、真っ青になったお嬢は入り口を背にその場で崩れ落ちた。それは俺にとっての勝利だった。
「……ぐッ……!」
不思議と怒りも悲しみも湧いて来なかった。痛い痛いと叫び散らす表面的な思考のさらに深いところで、どこか冷静なままの自分が盛大に呆れていた。
───えぇ……何やってんの、俺…………。
ドン引きだった。
早まったお嬢を止めるためとはいえ自分の手に穴を空けて見せるとか正気の沙汰じゃない。ヤケになってたのはどっちだよ。絶対もっと他に良い方法あっただろ。
後悔をし始めたところでぼちぼち頭の回転も戻って来た。床に近付けた手を見れば俺の貴重な鉄分が勢いを緩めながら今もなお
滴
り続けている。とりあえずこれをどうにかしなければならない。確か……心臓より高い位置にやるんだっけか。
近くの棚から震える手でティッシュを何枚も掴み取り、左の手の平から甲にかけてを包み押さえ込む。貫通していたかを確認する勇気はなかった。赤く滲んたその上からさらにティッシュを何枚も重ねて行く。痛い、ずっと痛い。
「あ、あぁっ………」
痛くて叫びたい衝動を押し殺していると、俺を代弁するように喘ぐ声が耳に届いた。
「ぁぁぁっ……」
「……」
自分以上に
狼狽
える人間が近くに居ると、この怪我でも意外と冷静で居られるらしい。それともハイになったテンションと痛みで奇跡的に釣り合いが取れているだけか。
「……っ………」
眉を八の字にして痛々しそうに俺の左手を見つめ少しずつ頬を濡らすお嬢。誰に何をしようとしていたのか、今どんな気持ちでそうなっているのか、全ては想像でしかないけれど。
今のその表情が優しさから来るものなら、そんな心を持つお嬢があの裁ちバサミに込めた暗い想いは余程なものだったんじゃないかと考えてしまう。
「────別に、嘘じゃねぇんすわ……」
「え……?」
「ファッションショー、別に頼まれなくたってお嬢に投票してた……だって、一番イカしてたし……」
「……っ………」
フォローをするつもりはないけど、誤解がある事は間違いなかった。お嬢が被害妄想に浸るのは勝手だけど、俺が抱いた感想まで勝手に決めつけられるのは気に食わない。何よりこれでお嬢が同じ事をしでかさないようになるなら言わない手はなかった。
ろくに関わったことなんて無いし、背景にどんな努力や企みがあったかは分からないけど、結果として最高のクオリティを引き出せていたことは今の普段の姿であろう制服のお嬢を見れば分かる。メイクや装飾の事もあまり詳しくないけど、一発であの完成度まで持って行くことはできないだろう。きっと少なくない数の試行錯誤があったんだと思う。
「……でもッ……何でも似合うのが羨ましいってのは、ちょっと違ったかもっす……」
「ぇ……?」
「や、実際似合うんでしょうけど……」
痛みを我慢する度に息が詰まり、語気が強まる。甘い言葉を向けてみようとはしたものの、そんな優しさより勝る自分の感情があった。
金持ちだからできた。整った容姿だからできた。大層な肩書きがあるから実行できた。自信もあった。胸を張れた。だから簡単に不幸に押し潰される。憎しみが弾ける。理性が吹っ飛ぶ。安易に自分を傷付けようとしてしまう。それを俺が言えることかは別として。
それを共感できないのは生きる世界が違うからだ。そんな事があり得るのを俺は知っている。それを受け入れたからこそ今の俺があるのだから。だからこそ、
「────涙まで、似合う必要はないんじゃないですかね」
「ぁ……」
寄り添う選択肢なんてものは俺には無かった。つい憎まれ口を叩いてしまう。同時にニコリと笑ってやったつもりだが上手く笑えているだろうか。取り繕う裏で頭に血が昇っているのが分かる。
まるで悲劇のヒロインのようで腹が立つ。泣き顔までもお似合いなのが気に食わない。こちとらイケてる角度を探すだけでも精一杯だというのに泣き顔まで綺麗な
面
しやがって。
「嫌なら、泣き止んでくれますか」
「……っ……」
まるで自分が何も持っていないかのようで腹が立つ。恵まれた生まれに整った容姿もあり、つい数時間前に多くの人間を惹き付けておきながら家族も友人も家も財産も全て失ったかのような言動しやがって。
「悔しいなら立ち上がってくれますか」
凶器を片手に乗り込んで来たのは何故だ。その胸の内に誰にも譲れないプライドがあったからじゃないのか。だったら無様な姿を「お似合い」と言われて怒るくらいの気概を見せてほしい。元より高飛車な性格のお嬢様なのだから。
「───それができないなら、手くらい貸しますけど……?」
「……っ……!」
縋るように見上げてくる瞳に眼力をぶつけ、暗に「立て」と脅しつける。俺も痛みで何らかのタガが外れてしまっている。こんな手を怪我したやつから手を貸すなんて言われるのはもはや皮肉を通り越して嫌味にしかならないだろう。我ながら嫌な性格だ。
こんなとき姉貴と同じ粗暴な血が役に立つ。何かと理屈の増えた頭に、根性論がよく馴染む。押し付けがましい熱血さが、身勝手な爽快感を生み出して左手の痛みを誤魔化してくれる。
ティッシュが足りず、腕を伝う血液が袖の中に入って肌とワイシャツをくっ付ける。痛みが和らいでも、制服姿で汗だくになったときと同じ気持ち悪さにも襲われる。出入口の前でペタンと座ったままで居られるとこの地獄はいつまでも続くのだろう。まずい……これ、やっぱりそろそろどうにかしないと……。
「うぅ……ひっく……!」
「えっ……」
危機感を覚え始めたところで、食いしばるような泣き声で震える手を差し出して来るお嬢。期待した結末を大きく逸れ、肩透かしをくらった感覚になり気の抜けたような声が出てしまう。一瞬だけ痛みすらも忘れたような気がした。
えっ……確かに立たせてやるって言ったけど、こんな怪我してる奴に普通立たせてもらう? マジで? 生きる世界違いすぎない? 立たせるけどさ……。
「ぐッ……!」
細く小さい手を
右手
でがっしり掴み、ほぼ俺の力でお嬢を引き上げる。生意気にも自分の力を一切使わなかったお嬢に苛立ちどころか殺意すら生まれそうだった。お陰さまで左手が余計に痛い。気分は最高にベジータだった。
立たせきったところで、お嬢はようやく自分の力でその姿勢を保った。
「おい……」
「……!」
「え、ちょっと……」
立ち上がったというのに離してくれない右手。
解
こうにも左手が使えず困っていると、お嬢が俺に寄っかかって来る。右手が離されたと思ったら縋り付くように両手を俺の胸に添え、進みたい方向とは反対側に体重をかけて来る。突然の嫌がらせに動揺を隠せない。このお嬢、
強
かすぎる……!
「……保健室、行かせてくれるか?」
過去イチ低い声が出た。
◆
保健室までの道のりは遠く感じた。胸の前に翳した左手が熱く、痛い。途中ですれ違った名も知らぬ先輩がギョッとした目で見て来たのが分かった。ここに辿り着けば助かるという根拠の無い期待が壁を作ったか、何故か周囲が助けてくれる事を期待すらしなかった。騒がれることで生じる大きな音で傷口を刺激される方が酷く怖かった。
「ぐッ……」
立て付け完璧なスライドドア。いつもなら小指一本で容易く開けられただろうに、今だけは鉄の扉をこじ開けるような感覚に思えた。赤く滲んだ左手に対し、顎を伝って床に落ちた透明な脂汗がやたら健康的に思えた。
「す、すいません……!」
入るなり胸に力を入れて呼ぶと、奥から「はーい」と呑気そうな声が返って来る。少なくとも壮年の保健医の声じゃない。パタパタと床を軽やかに弾く音と一緒に、左奥にあるベッドスペースの壁の角から一人の女子生徒が顔を出した。
「───だーれ?」
「……」
現れたのは明らかに「あたしサボってます」って感じの清純系の皮を被ったギャルっぽいお姉さん。同い年には見えなかった。ウェーブがかった黒髪ロングに短いスカート、カラフルなシュシュを手首につけ、制服を着崩している。とても体調的な問題でここに居るようには思えない。見た目こそ違うものの、ギャルを卒業し切れていない一般生徒みたいな雰囲気がどこか姉貴を感じさせる。
「あ、男子だ」
〝男子だ〟じゃねぇ。この血みどろの左手が目に入らぬか。
俺を見つけた瞬間にスンッと無表情になった晩年ギャル。控えおろうの一つでも言ってやろうかと思ったものの本当に控えられたら困る。緩めに結ばれたネクタイの色が緑色だ。やはり年上で姉貴と同じ三年の生徒らしい。このくそピンチの状況で面倒な先輩の機嫌を損ねるべきじゃないだろう。
「あ、あの……先生は……保健医の
新堂
先生って……」
「レイコちゃん? 今出てるよ?」
「う……」
……お、終わった……。
心の中で何かがポキリと折れ、ドアのすぐ側にあったソファー質の長椅子に腰を下ろす。痛む左手を胸より上に保つ体力も残っておらず、膝の上にそっと置いた。位置が低くなった左手に向かって熱いものが向かって行くのが分かった。
新堂先生……レイコって名前だったのか……。