Yumemiru Danshi wa Genjitsushugisha RAW - chapter (73)
女神は振り返る
愛莉が生まれた時、私はまだ小学生だった。
初めての妹。小さな命の天使のような可愛さに、私も幼いながらに喜んだのを憶えている。お姉ちゃんになるんだからしっかりしないとって。そう意気込んでいたらお父さんとお母さんが偉いねって抱き締めてくれて、新しい家で、愛莉と一緒に満たされた日々を送ってたと思う。
小学校の卒業と同時期、転職で成功したという同僚の人に
倣
ったお父さんが
躓
いてしまった。大見栄を切って辞めた前職に復帰するなんて事ができるはずも無く……暫くお父さんは就職活動をする事になった。一年半後、何とか就職できたところで前職以上に軌道に乗る事はできたけれど、家が建ったばかりのうちはそれまでの間、苦難とも言える時期だったと思う。
お母さんは愛莉を産んで一年少しでパートに出て働くようになった。お母さんの体を心配した私は自分から家の手伝いを申し出て、自分の事は自分で済ますようになった。いや、状況的にそうせざるを得なかったんだと思う。
朝早く起きたら洗濯機を回してその間にお弁当を作る。庭に洗濯物を干したら自分の身だしなみを整えて中学校に向かう。帰ったら夕食のメニューをお母さんに聞いて買い物をして、愛莉の世話をしてる間にご飯を作ってもらう。
成長期で変わって行く自分の身体への対処、思春期ならではの不安定さから来る恐怖感。そのどれもに向き合わなければならなくなり、日々の生活に次第にうんざりして行くようになった。
干からびた日常。無垢な愛莉に対して眉間に皺を寄せた顔を向けたのは今の私にとっては永遠に許せない罪だ。だからこそあの時の分を幸せにして返すため、お姉ちゃんとして今、そしてこれからも精一杯の愛情を注ぎ続ける──そう、平穏を取り戻した時に心に強く誓った。
私にとって辛かったのが周囲との差だったと思う。他の子たちはいかにも女子中学生らしく新しい場所に遊びに行って、流行やファッション、ドラマやアイドルの話に盛り上がるようになって行った。それを楽しめるみんなを羨ましく思いながらも、次第にそんな周囲を理解できなくなってしまい、私は遊びの誘いを断ってどうにか忙しい日々を繋いでいた。
〝ああ、おかしいな〟って。そう思い始めたのが中学二年生の一学期だった。自分はすっかり教室の隅っこの住人……どうして自分だけこんなにつまらない学校生活を送らなければならないのって、反抗期に入ろうとしていたと思う。
もう、限界が近かった。
『あのっ、昨日は!助けてくれてありがとうございました!』
渉
が現れたのはそんな時だった。
梅雨の時期、ビニール製の床が湿気でかなり滑りやすくなっていたのを憶えている。その日は時間が無くてお弁当を作ることが出来ず、お昼を食堂で摂ろうとしていた。
そんな食堂の真ん中で、手に持っていたお盆を盛大にひっくり返してしまった男の子が居た。無理もない、床は湿気でつるつる滑るようになっていたし、いつか誰かがやってしまうだろうなって、心の中で思っていたから。
尻餅を突いて痛みに顔を
顰
めながら呆然とする男の子。その後五秒ほど、周囲の誰もが見て見ぬ振りをしたのを憶えている。虚ろな瞳、周囲に対する絶望……そんな雰囲気を漂わせた彼に酷く同情した。
ほぼ無意識に私は転がっていたお盆を手に取り、床に散らばって割れた食器類や料理を拾い始めていた。こんなの嫌だよね、辛いよねって、口には出さなかったけれど、視線で彼を励ましていた様に思う。
飛ぶように走って来た食堂のおばさんが水切りワイパーとちりとりを持って来て、私はその時の彼と三人で食器の残骸を処理し、騒動にもならず事なきを得た。
『夏川愛華さん。その優しさに一目惚れしました。俺と付き合ってくれませんか』
その三日後だった。漫画やドラマで見るように、彼が私を
人気
の無い校舎裏に呼び出して想いを告げてきたのは。正直、その時はどこか
他人事
のように聴いていたと思う。
日々の忙しさに追われ、その時の私は誰かと付き合うなんて考えにはなれなかった。当然、それを理由に渉からの申し入れは断らせてもらった。でも、それが彼──渉の猛アプローチの始まりだった。
『あんな真摯に向き合ってくれたのは初めてだ』
そんな事を言われ、渉は次の日から何度も私の元に顔を出すようになった。日々の鬱憤の上に煩わしい存在が加わって、かなり酷い言葉を投げつけてしまった事もあったと思う。それと同時に、鬱憤のありったけ──私の恥ずかしい部分を渉に知られてしまった。
『──夏川さん、ちょっとこの問題教えて』
『──ね、名前で呼んで良い? 呼ばせてくださいお願いします』
『──愛華、荷物持つから一緒行こうぜ』
付き纏って来る〝佐城渉〟という男。
終
いには放課後の買い物にも現れ始め、かなりオープンなストーカーに近かったと思う。その猛攻は皮肉にも学年で一種の名物になり、私の名前がみんなに知られる事になった。
『夏川さん、変な男子に付き纏われてるんだって? 大変だよね』
『夏川さん可愛いもん仕方ないよ! アタシ達が守る!』
何の同情かは知らないけれど、いつの間にか私はちょくちょく誰かに話しかけられるようになった。渉が現れては心配してくれて、それから次第に授業の合間に話すようになった。
お母さんがパートを休んだ時、初めて同級生の友達と遊びに行った。何処から聞き付けたのか、渉も男の子達を引き連れて来て女の子たちみんなでやっかんだりして、そうやってワイワイする事がとても楽しかった……本当に、楽しかった。
受験生になって一時期、渉はあまり話し掛けて来なくなり、私は受験勉強に集中する事になった。同級生の女の子たちと一緒に必死に勉強して、私は授業料の安い進学校の
鴻越
高校を目指した。つらい日々だったけど、少し前のつまらない日々に比べたら全然平気に思えた。
“家に負担をかけさせないため”。その願いと努力が報われたのか、私は鴻越高校に合格する事が出来た。驚いたのは、合格発表の日に渉が笑顔で待っていた事だ。
最近は大人しかったし、『ああ同じ高校なんだ、よく合格できたね』って、気軽に言葉を返したのを憶えている。たぶん、知ってる人が居るって安心感も有ったんだと思う。
その直後、渉は周囲にたくさんの人が居るのにも
拘
わらずとんでもない事を言い出した。
『愛華と同じ高校に通いたかったからな!』
慌てて
人気
の無いところまで連れて行って、割と感情的に叱りつけた。何故かその時にせめて名前で呼ぶようにと頼み込まれ、渋々了承したのを憶えている。
高校の入学式の放課後、渉はまた、私に自分の想いを告げた。その時には既にそれが何回目の告白なのか分からなくなっていた。それほど、中学生の間に同じ言葉を聞いていたからだ。
つまらない日々が過ぎ去ってもなお、私の中に〝誰かと付き合う〟という発想は無かった。それに、単純に渉の事を煩わしいと思い始めていた。いい加減しつこいと、きっともう聞く耳すら持っていなかったと思う。
高校生活が始まって渉はまた私に付き纏うようになった。あまりに実直なアプローチに私の周囲の席の子たちが目を丸くして驚いていたと思う。その中の一人に、〝芦田圭〟という女の子が居た。
『夏川さんモテてるね〜』
『あいつが付き纏ってるだけよ……』
顔をしかめて返したつもりだったけど、圭はくつくつと笑って私に話し掛けて来るようになった。一番に愛莉を紹介した親友だと思う。凄く頼りになる。そして中学生の頃と同じように、渉に付き纏われる私に同情するように色んな子が話し掛けて来た。
理想とはちょっと違うけど、中学生の頃とは違う。そんな期待を胸に、私は高校生活をスタートした。今までの苦労が報われるように充実した日常、家の事もあって部活は難しかったけど、それでも時々誰か女の子と遊びに行くようにはなった。その時、きっと私は満たされていたんだと思う。
『───悪かったな、夏川』
突然だった、訳がわからなかった。
何を言っているのか全然わからなかった。勝手に纏わり付いて、頼んでもないのに離れて行って。そのまま渉は私から距離を取った。その直後はショックなんて無くて、「これで平穏な生活が送れる」って、せいせいしていた。
そのはずだったのに。